歴史上、大きな足跡を残した人物の生涯から学び、よりよい老後を生きるヒントを探るという趣旨の企画です。
記念すべき第一回は、伊能忠敬を取り上げます。
17年をかけて日本全国を測量し、きわめて精密な地図を作成。家業を成功させて隠居後に、第二の人生でも偉業を成し遂げるという、まさに偉人と呼ぶにふさわしい人物です。
伊能忠敬の生涯を紹介
忠敬は、延享2年(1745年)、上総国(千葉県中央部)の小関村(現在の九十九里町)で小関貞恒の第三子として誕生しました。
17歳で佐原の酒造家・伊能三郎右衛門家に婿入りし、四歳年上のミチと結婚します。
若くして伊能家の当主となった忠敬は、酒造等の家業に精を出す一方で、名主や村方後見としても奮闘。天明の飢饉や打ちこわしの危機にも対処し、何とか切り抜けることに成功しています。
家業も名主も立派に勤め上げ、寛政6年(1794年)、息子の景時に家督を譲りました。隠居の身となった忠敬は、翌年に50歳で江戸に向かい、天文学の第一人者、高橋至時に弟子入りします。
至時は正確な暦を作成するために、子午線1度の長さを求める必要があると考え、江戸から蝦夷地の距離を測ることを思いつきます。そこで、幕府に蝦夷地の正確な地図を作るという名目で願いを出し、忠敬はその測量事業に参加することになりました。
以後、第十次測量まで日本全国にわたり測量の旅と地図制作を続け、文政元年(1818年)、忠敬は74歳の生涯を閉じました。
地図製作は門人たちにより継続され、死後3年に「大日本沿海輿地全図」として完成、幕府に提出されたのでした。
忠敬が生涯歩いた距離は3万5000kmとも言われます。まさにほぼ地球一周分に近い距離です。
忠敬の生涯から得られる教訓とは
50歳を過ぎてから、本格的に弟子入りし、初めて測量に基づく正確な日本地図を作成した伊能忠敬。
常人にはとても真似できない偉業を成し遂げた偉人の生涯ですが、私たちにも活かせる教訓を探ってみたいと思います。
まずは本業に精を出す
おそらく忠敬は好きな学問に没頭するという憧れを長く持っていたと思われますが、まずは自分の役割をしっかりと認識し、引き継いだ家業である醸造業、水運業などに精力的に取り組みます。
また、事業に精を出す一方で、地主や名主や村方後見としても奮闘します。
家中や村人、さらには役人との関わりが必須の役割であり、神経を使う膨大な仕事があったはずですが、忠敬は立派に勤め上げます。
このように佐原時代にしっかりと自分の役割を果たしたことが、実は後の測量や地図作成に大いに役立ったと推察されます。
例えば、家業での蓄財があったことで、後の測量事業の費用でかなりの額の持ち出しがあっても賄うことができました。
また、測量の旅では役人への報告や交渉する機会も多く、佐原時代で磨いたコミュニケーションスキルが役立ったのは間違いないでしょう。
憧れの気持ちを温め続け、その準備も少しづつ進める
次に挙げたいのは、忠敬は決してその場の思いつきで暦学や天文学を学ぼうとしたわけではなく、あらかじめその準備を進めたことです。
忠敬は隠居を考え始めてからは江戸や京都から関連する本を取り寄せて勉強し、また天体観測を行ったりして準備を進めていきます。家業の仕事は実質的に息子の景敬に引き継いで任せるようになりました。
このように、時間をかけて準備を進めることで必要な情報を集め、自分が本当にやりたいことなのか、実現性はあるのかが見えてきます。
本当に自分がやりたいことなのだと確信が持てれば、その憧れがますます膨らみ、実際に始めた時に大きな情熱となって取り組むことができるのだと思います。
そのような憧れを持つことは、いわば夢を持つことと同義といってよいでしょう。
夢を色々思い描くこと自体とても楽しいですし、未来に対して希望を持つことができ、前向きな気持ちになれます。
例えば、現代だと「老後はカフェを経営したい!」「田舎暮らしをしたい!」「海外で暮らしたい!」といった夢を持つ人もいるでしょう。
そうした夢を持つことは大変結構ですが、はたしてそれが現実的なものか、じっくり考えることも忘れてはいけません。
時間をかけて考えれば、勢いで決めてしまって後になって検討不足だったことに気付く…という事態も避けられます。
「カフェをやりたい」を思っても、じっくり収支を考えた結果、「店舗を契約するより、自宅を改築して限定的に営業しよう」とか
「やはり、趣味で身内や知人だけ呼んで振舞おう」という結論になるかもしれません。
田舎暮らしの夢を持っていたとしても、「家を田舎に移すよりも、一年に何週間かだけ、自然豊かな地域に住むことにしよう」といった無理のない範囲で夢をかなえることができるかもしれません。
まずは、何を始めるにも、最初から無理をすることなく、例えば初期投資をできるだけ抑えるなど、その夢が自分の身の丈にあったものかを自問できる期間をもてるとよいでしょう。
年下にも恥ずかしがらず教えを乞う
江戸に出た忠敬は新進気鋭の天文学者である高橋至時に弟子入りしました。
至時は忠敬より20歳近く年下でしたが、その指導の下、熱心に勉学に励みます。
このように、自分が今まで経験したことのない分野で、基本から学ぶ立場になるというのも初心を思い出したり、人との接し方をあらためて見つめ直したりする契機になり得ます。また、違った角度での見方も可能になるものです。
現代に生きる私たちも、40代、50代になったところで自分より若いメンターを持つことを検討してもよいかもしれません。
若い人の方が、ITやWebの新しいテクノロジー等は感度が高く、うまく使いこなしている面があります。私も、最近GoogleアナリティクスやGoogleサーチコンソール、Googleタグマネージャーといったツールの使い方を20代の若手社員に教えてもらいました。そのような姿勢をもつことで、自分のスキルを磨くとともに、新たな刺激を受ける機会ともなっています。
大事のためには公の力を借りることも忘れない
当初の測量事業の費用は、幕府からの支給金では全く足りず、忠敬の私財から大幅な持ち出しが必要となっています。
その後、国防の観点からも次第に地図作成の重要性が理解されていき、徐々に支給される額も多くなっていき、最終的には全行程を賄えるだけの額をもらえるようになりました。
もちろん、忠敬が期待に応える仕事ぶりを見せて、幕府からの信頼を得ていったことも大きいかったでしょう。
また、そのような幕府の高い評価を受けることで、各藩や現地の村からも協力を得やすくなりました。
現代よりもはるかに制約が多く、自由に行動できない当時は、幕府の威光をうまく利用することも必要不可欠だったのです。
時には現地での抵抗を受けることもありましたが、忠敬は各藩や奉行所などとも交渉して測量を進めていきました。
現代でも、自力だけでは解決が難しい問題は、もっと大きな影響力をもつ存在に力を借りることも重要です。
例えば、老後の生活では自助が基本となりますが、やはり個人では微力なので、場合によっては公助もうまく活用することがポイントになることもあります。
また、何か大きなことをしようとした場合、役所などに働きかけが必要になるケースもあり、うまく折衝する能力も重要です。
旅行先であらためて感じた忠敬の偉大さ
私は、ここ数年の夏季休暇で、新島(伊豆七島)、五島列島(福江島)、函館と旅行に行ったことがあります。
旅行先では、地元の文化などをよく知るためにいつも現地の博物館に立ち寄るのですが、その3箇所すべてに伊能忠敬一行が作成した地図(複製)が展示されており、一行がこの地まで測量に訪れていたことを知り、驚愕しました。
飛行機も、新幹線も、高速フェリーもない時代に、遥々よく来たものだと本当に感服します。
老境に入っても、これほどの大事業を行うことが可能なのですから、モノや情報が何でも容易に手に入り、当時よりもはるかに制約の少ない現代に生きる私たちは、その100分の1でも当たる何かを成し遂げていきたいものです。
ちなみに、忠敬が歩いたと言われる3万5千㎞の100分の1でも350km…
…やはり伊能忠敬は偉人と呼ぶにふさわしい大人物です。
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